「サイバーエージェントとテレビ朝日が挑む『インターネットテレビ局』、若年層が支持」「AbemaTV、本開局から20日で200万ダウンロードを突破。驚異的な立ち上がり」


概要

2016年5月2日。春の陽光が差し込む街角で、多くの若者たちが顔を上げることなく、手元の端末を見つめている。そこにあるのは、YouTubeでもNetflixでもない、新しい「テレビ」の形である。昨日発表された報告によれば、4月11日の本開局からわずか20日、先行配信を含めた一ヶ月で、AbemaTVのダウンロード数は200万の大台を突破した。これは、物理的な受像機という檻から「放送」という概念が解き放たれ、個人の掌(てのひら)へと完全移転を開始した、歴史的な相転移の断面である。

現在進行形で展開される24のチャンネル。ニュースが流れ、アニメが放送され、バラエティが時間割通りに進んでいく。人々は「選ぶ」という能動的な疲労から解放され、かつての茶の間が持っていた「流れてくるものを受け取る」という受動的な安らぎを、スマートフォンの画面という極めてプライベートな空間で再発見している。運営側は巨額の赤字を厭わず、数千億円規模の投資を断行する構えだ。これは単なるアプリの普及ではない。電波という物理的な制約に基づいた既存の放送権威が、光ファイバーとアルゴリズムという新しい権力に主導権を明け渡す、その宣戦布告なのである。


背景

この爆発的な始動を発生させた背景には、2010年代半ばにおける「情報の消費速度」と「端末の進化」の危うい均衡が存在する。2016年当時、スマートフォンは既に生活のインフラとして完成され、LTEネットワークの普及によって、動画をストレスなく屋外で消費することが可能となっていた。しかし、当時の動画配信は「検索して見る」オンデマンド型が主流であり、情報の海を泳ぎ続けることに疲弊したユーザーたちは、再び「誰かが編成した時間」に身を委ねる感覚を無意識に求めていたのである。

当時の人々の感情には、既存のテレビ放送に対する「見たいものがない」という冷めた視線と、それでもなお「誰かと同時に同じものを見ている」という連帯感への微かな執着が混在していた。サイバーエージェントの藤田晋氏が掲げた「インターネットテレビ局」というコンセプトは、テレビ朝日の持つプロフェッショナルな制作能力をデジタルの器に流し込むことで、この矛盾を見事に突いたのである。技術的には、パケット通信料の定額制が当たり前となり、動画消費という行為が「贅沢」から「呼吸」へと変わった瞬間でもあった。


現在の状況

2016年の観測から10年。現在、ABEMA(名称変更を経て定着した現在の姿)は、もはや一つの新興メディアではなく、国家の「情報インフラ」としての地位を確立している。かつて「ネットでテレビ?」と首を傾げていた層は姿を消し、スマートテレビのリモートコントローラーには専用のボタンが標準装備されている。これは、放送と通信が「融合」したのではなく、通信が放送を完全に「内包」した結果である。

現在の最大の変化は、そのビジネスモデルの多層化にある。開局当時に掲げた「広告モデルによる無料放送」という理念は維持されつつも、特定のスポーツイベントや音楽ライブにおけるPPV(ペイ・パー・ビュー)の成功が、メディアの収益構造を根本から書き換えた。2022年のカタールワールドカップにおける全試合無料生中継という「博打」とも呼べる英断は、結果として、それまでテレビの独壇場であった「ナショナルイベントの共有」という機能を、完全にネット側に引き寄せる決定打となったのである。

しかし、その成功の影で、メディア空間はかつてないほどの「断片化」と「エコーチェンバー」に苛まれている。誰もが好きな時に、好きな角度の情報を手に入れることができるようになった反面、社会全体が同じ事実を共有し、議論するための「共通の広場」は消失しつつある。ABEMAが提供する膨大なコメント機能は、一見すると連帯感を生んでいるように見えるが、その実態は、同じ価値観を持つ者同士が閉鎖的な空間で共鳴し合う、極めて脆い紐帯の上に成り立っているのである。


差分と要因

10年前と現在を比較した際、浮かび上がるのは「場所の自由」を手に入れた代わりに失われた「時間の共有」という代償の対比である。

変化したものとして特筆すべきは、視聴者の「主権」の所在である。2016年にはまだ「放送局が時間を決める」ことへのリスペクト、あるいは諦めが残っていた。しかし現在は、倍速視聴や追っかけ再生といった機能が、放送というリニアな時間軸を物理的に粉砕した。時間はもはや絶対的な指標ではなく、個人の都合に合わせて伸縮する「可変的な素材」へと成り下がったのである。

変化していないものは、人間の「ライブ体験」に対する原始的な渇望である。どれほどオンデマンドのライブラリが充実しようとも、スポーツやニュースといった「今、この瞬間に起きていること」を世界と共有したいという欲望は、微塵も減退していない。ABEMAがこの10年、リニア放送という形式にこだわり続けた要因は、この「同時性」が持つ魔力を、誰よりも正確に見抜いていたからに他ならない。

社会構造を根底から変えた決定的な要因は、通信インフラの「空気化」である。2016年にはまだ存在したパケット制限への恐怖や、通信速度の揺らぎは、5Gや次世代の高速通信網によって完全に過去のものとなった。動画はもはや「送られてくるもの」ではなく、空間そのものに偏在し、私たちが意識を向ければ即座に立ち現れる「環境」の一部と化したのである。


[これからの10年]

過去10年の軌跡が「放送のインターネット化」であったとするならば、これからの10年、すなわち2036年へと続く地平線にはどのような問いが待っているのでしょうか。

その時、私たちはなおも「画面」という物理的な制約を通じて世界を見ているのでしょうか。あるいは、空間コンピューティングが網膜に直接映像を投影し、私たちの視界そのものが一つの巨大な、しかし極めて個人的な「チャンネル」へと変貌しているのでしょうか。

情報の送り手がAIとなり、個々の視聴者の心理状態や嗜好に合わせて、リアルタイムで番組内容を生成・改変する「完全パーソナライズ放送」が実現した時、私たちはなおも「メディア」という言葉を使い続けているのでしょうか。それとも、それは単なる「意識の拡張」として、私たちの認知の一部に同化してしまうのでしょうか。

2016年5月2日、200万ダウンロードという数字に熱狂したあの日の人々は、自分たちが手に取った「自由」の正体が、実は情報の奔流に流されるための「浮き輪」であったことに気付いていたのでしょうか。

次なる10年、あなたが手にするのは、自らの意志で選び取った真実ですか。それとも、あなたの孤独を埋めるためにアルゴリズムが用意した、美しく完璧な「番組」なのでしょうか。その審判は、次にあなたが端末のロックを解除し、その青白い光に身を委ねる瞬間に、既に下され始めているのかもしれません。