「環境省、2年目のクールビズ開始。『ネクタイを外すのは失礼』か。マナーと環境意識の狭間」「冷房温度28度設定を呼びかけ。小泉首相も沖縄の開襟シャツ『かりゆしウェア』で執務」


概要

2006年5月8日。大型連休が明け、初夏の強い陽光が容赦なく降り注ぐ中、日本のビジネス街には奇妙な「脱皮」の風景が広がっているのである。環境省が提唱して2年目、本格的な社会実装を目指す「クールビズ」が今年も全国で一斉に始動した。霞が関の官庁街では、かつては無作法とされたノーネクタイ、半袖シャツ姿の官僚たちが闊歩し、小泉純一郎首相もまた、ネクタイを外した軽装で毅然と閣議に臨むのである。

冷房の設定温度を28度まで引き上げ、消費電力を抑制するという国家規模の「我慢」を、新しいライフスタイルという美名でコーティングする試みである。百貨店は「涼しげなビジネススタイル」を競うように展示し、アパレル各社は失われたネクタイ需要の穴を埋めるべく、台襟の高いボタンダウンシャツなどの新商品を投入しているのである。そこにあるのは、長年続いてきた「夏でもスーツ」という身体的な規律を、環境保護という大義名分のもとに一気に書き換えようとする、社会的な相転移の真っ最中という熱量なのである。ネクタイという絆(きずな)を解き放つことが、文明的な進化であると説く政府の扇動に、日本中が戸惑いながらも同調し、新しい「標準」が作り上げられていく轍(わだち)なのである。


背景

2006年という断面を審理すれば、そこには京都議定書の発効に伴う温室効果ガス削減目標という、国際的な公約の履行を迫られた国家の焦燥が見て取れる。当時の小泉政権によるトップダウンの「劇場型政治」は、個人の服装という最も末端の規律にさえ、環境保護という政治的正しさをインストールすることに成功した。

当時の技術水準において、冷房の効率改善はまだ道半ばであり、設定温度を上げることそのものが唯一の直接的な解と見なされていた。また、バブル崩壊後の長い停滞を経て、古い慣習を打破すること自体が「改革」として称賛される空気感が、アパレル業界の活性化を狙う経済的野心とも合致していたのである。人々は、首元の締め付けを緩めることに解放感を覚えつつも、それが「マナーの崩壊」に繋がるのではないかという、前近代的な道徳観との葛藤の中にいたのである。


現在の状況

観測から20年が経過した今日、クールビズという言葉はもはや、ニュースのヘッドラインを飾ることはない。それは、かつての「改革」が完了し、社会の標準OS(ベースライン)として完全に埋設されたからである。

今日、日本のビジネスシーンにおいて、夏場にフルスーツとタイを強要される環境は、一部の儀礼的空間を除いてほぼ消失した。さらに、リモートワークの常態化は、服装の自由化を「季節限定の施策」から「通年の文化」へと昇華させた。環境省は既に一律の実施期間の設定を廃止しており、個々人が気候に合わせて自律的に服装を選択するフェーズに入っている。

しかし、その背景にある「環境」の深刻さは2006年当時とは比較にならない。40度を超える酷暑が常態化する現在、クールビズは「節電の美徳」ではなく、熱中症から生命を守るための「生存戦略」へと変容した。スマートウェアの普及により、衣服そのものが温度を調整し、体調をモニタリングする技術が実装されつつあるのが現在の地層である。2006年にあどけなく提唱された「28度」という数字は、今や凶暴な熱波の前では無力な、牧歌的な時代の遺物となっているのである。


差分と要因

2006年と現在を比較した際、浮かび上がるのは「義務から自律への移行」と、それによって喪失された「共通の風景」である。

変化したものとして特筆すべきは、服装決定の主導権である。かつては政府が期間を指定し、企業がそれに従うという、いわば軍隊的な一斉行動であった。しかし現在は、デジタル化による働き方の多様化と、気象データの精緻化により、個人のデバイスが「今日の最適解」を提示する。変化していないものは、周囲の目を気にする日本的な「同調の力」である。かつてネクタイを外すことに勇気を必要としたように、現在は「どこまでカジュアルにして良いか」という新しい不安が、人々の装いを規定し続けている。

社会構造を根底から変えた決定的な要因は、気候の「物理的な限界突破」である。2006年にはまだ議論の余地があった「28度設定」という我慢は、もはや現代の熱帯化した列島においては、生命を危険に晒す非合理な精神論へと成り下がった。技術と制度による調整範囲を、自然の暴力性が上回ったことで、服装という文化は「ファッション」から、生存のための「防具」へとその本質を強制的に組み替えられたのである。


[これからの10年]

過去20年の軌跡が「規律の解体と、生存のための適応」であったとするならば、2036年へと続く次の10年の地平線には、どのような「身体のあり方」が待っているのでしょうか。

その時、私たちはなおも「衣服」という物理的な布を纏って、外気と隔絶されているのでしょうか。あるいは、ナノ技術によって皮膚そのものが温度調整機能を持ち、衣服という概念自体が、純粋な装飾目的の「ホログラム」へと相転移を遂げているのでしょうか。

都市全体が巨大な空調ドームに覆われ、外を歩くこと自体が「贅沢」あるいは「非効率」とされる世界。そこでは、2006年にネクタイを外して喜んでいたあの日の人々の姿は、あまりに不器用で、しかし人間味に溢れた、過ぎ去りし人類の記憶として語られるのでしょうか。

テクノロジーがすべてを制御し、不快感を排除し尽くした果てに、私たちは「風を感じる」という野生の喜びを、どこまで維持できているのでしょう。10年後のあなたが選ぶのは、最新の環境適応プラグインか、それとも、失われゆく「肌に触れる空気の揺らぎ」か。

その答えは、便利さと引き換えに私たちがクローゼットの奥に捨て去った、あの古いネクタイの結び目の中に、既に隠されているのかもしれません。